国境なき刑事弁護団

シドニー事件

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左から山田(豪州)弁護士、ジョン・ブレイシー私立探偵、グッドリッジ弁護士、オゼン弁護士、山下潔
弁護士、筆者(シドニー市内ニュー・サウス・ウェールズ州リーガルエイドの事務所にて:保坂氏撮影)

  1. はじめに

     2002年7月にオーストラリアのシドニー国際空港で起こった、日本人男性によるある薬物密輸入事件につき、私は、弁護活動の一端を担い、幸いにも今年3月3日、ニュー・サウス・ウェールズ州地方裁判所刑事法廷(District Court of New South Wales : Criminal Court)において無罪評決を獲得することが出来た。

  2. 受任に至る経緯

    あるメール(2002年11月7日)

     私は、いわゆる「メルボルン事件」(1992年に日本人男女5名がオーストラリア・メルボルン空港で麻薬密輸入罪で逮捕され有罪判決が確定したが冤罪であると主張している事件)の常任弁護団(団長:山下潔弁護士、事務局長:田中俊弁護士、計12名)の一員に名を連ねさせていただいている。平成14年(2002年)11月7日は、仮釈放された男性3名を乗せた飛行機が成田空港に到着する日であり、弁護団も、空港への出迎えやマスコミ対応に追われて慌ただしく過ごしていた。
     そんな折り、メルボルン事件弁護団宛てにあるメールが送られてきた。それは、次のような内容だった。

     初めまして。今日のニュースでメルボルン事件を知り、メールさせていただきます。
     実は、私の父(51才)がタイに在住(観光ビザ)していたのですが、6月の末にタイの日本人の知人からオーストラリアで、働いている7人のタイ人と会って生活状況を聞いてきてくれないかと言われ、6月30日オーストラリアで会う人のリストやお土産の日本酒とタバコを預かり、6時の飛行機で出発しました。
     7月1日オーストラリアのシドニー空港に到着し、父がタイ滞在中カンボジアやマレーシアに出国が多いせいもあったのか、税関で色々聞かれ、持ち物検査をされたら日本酒の中にスピードという麻薬が入っていることがわかりました。
     そして、そのままオーストラリアの警察に留置されています。(中略)
     運び屋として有罪となる可能性も高いらしく、向こうの国選弁護士から有罪なら12年の刑だと言われているそうです。罪を認めれば、8年にしてもらえるとも言われています。(中略)裁判に向かう父と日本にいる私達にどんなことができるか助言していただけないでしょうか。

     詳しい事情を知るため、本件の被告人(「S氏」と呼ぶ)の手紙や起訴状等の資料を送ってもらったところ、S氏から家族宛の手紙には自分の無罪が切々と訴えられていた。

     私が薬を運んで来たことを知らなかったと言って無罪を主張しても、オーストラリアの裁判で私の刑がどうなるのかわからない。
     検察側が提出した調査資料で分かったことは、私が宿泊する予定だったホテルは予約されていないし、私が面談する予定の7人のタイ人がオーストラリアに滞在した記録がないということである。
     国選弁護士は、いろいろな調査の結果すべて事実でないので、不利だと言う。有罪を認めれば、刑が25%ディスカウントされると言う。いままで無罪の人間でも有罪と答えたケースもあると言う。しかし、私は本当に知らなかったのだから、有罪と答えたくない。
     無罪を主張して有罪の判決が出たら刑が長くなりますよと言われたが、それならそれでよいと答えた。認めれば8年、認めなければ12年と言っていた。来年2月の裁判はトライアルといって、市民が14人程来て私の話を聞き、その人達が有罪か無罪を決める。私は真実で闘ってみます。

     メルボルン事件の弁護団会議の場で諮った結果、弁護団メンバーのうち、団長である山下潔弁護士、家族と同じく愛知県在住の湯原裕子弁護士(名古屋弁護士会所属)、そして最初にメールを受けた私の計3名で本件を担当することになった。

  3. 検察側の主張と被告人の主張

     本件“公訴事実”は「Sは、2002年7月1日ころ、ニュー・サウス・ウェールズ州シドニー市において、1901年税関法第233条Bに反し、禁制品すなわち転売可能な程度を上回る量のメチルアンフェタミンを含む薬物をオーストラリアに輸入した。」というものである。
     S氏自身の主張はどのようなものだったか、再びS氏の手紙から引用する。

     私は、(タイで事業を興したが失敗したことの説明…省略)日本の友人(A)から毎月3万円送ってもらい生活していました。しかし、6月からはB社長の仕事の手伝いをさせてもらうことになり、毎日B社長の会社に行ってました。
     6月20日ころ、以前から知り合った別の知人X氏から電話があり、月末にビザが切れるなら、オーストラリアへ行くバイトがある(中略)オーストラリアに働きに行っているタイ人の生活状況や仕事状況に不満がないかを聞いてくるだけの仕事だというのです。
     6月29日、(中略)8時30分ごろ、再びX氏から電話があり、エア・チケットが取れたと言い、依頼してきた会社の人間と電話を替わりました。その電話の相手は、タイ人の女性で日本語で話をしてきました。(中略)
     (6月30日)午後3時30分頃、タイ人女性がやって来て、「昨日電話で話をしたY旅行社のZと言います。」と言いながら名刺を出してきました。そして、3枚の簡単なメモを私に渡し、説明し始めました。(中略)私は、Zの名刺を見て、ローマ字で書いてある住所が東京になっていたので、この会社は日本の会社なんだなあと思いました。そして、彼女が持って来た日本酒の一升瓶を見せて、手紙に書いてある人(ジェフ)がホテルに取りに来るので渡して下さいと言いました。(中略)
     日本酒を受けとって、6時発のシドニー行きに乗って、翌朝5時頃、オーストラリアのシドニー空港に到着しました。(中略)税関員(カスタム・サービス)は、タイから来たことやら、パスポートがスタンプで一杯やらで、私をはなから疑っていました。そして、すべての所持品を見せて下さいと言われ、了承しました。
     日本酒も瓶の外からイオン・スキャンという機械でチェックしていました。それから、3枚の手紙を見て、この7人の人間を知っているかと聞かれ、私は知らないと答えました。そして、その7人から生活状況や仕事状況を聞くことだと答えました。(中略)2名のカスタム・サービスと話をしているうちに、もう1人のカスタム・サービスが酒のふたを破って持って来たので、私は、大事なおみやげのふたを開けるなんてメチャクチャな人たちだと思いました。
     それから、リーダー格のカスタム・サービスが来て、「あなたは麻薬を所持していたので、これからビデオとカセットテープを動かして話をします。」と言われました。
  4. 日本での事前準備

    I. オーストラリア弁護士との連絡

     S氏の手紙を受けとった時点で、2月17日の裁判まで既に約2カ月を残すのみとなっていた。S氏にはErtunc Ozen、Anthony Goodridgeというリーガルエイドの弁護士が2人ついていた。両名宛てに無罪の可能性を尋ねるメールを送ったのは、陪審裁判のちょうど2カ月前、2002年12月17日、返信が来たのは、約1週間後の12月23日のことであった。

    ご質問に対する回答は以下の通りです。

    1. S氏は陪審により裁判されますので、勝訴の可能性を予測することは困難です。
    2. ニュー・サウス・ウェールズ州リーガル・エイド事務局のオゼン弁護士又は私宛てに、S氏が所持していたのと全く同じ酒(写真参照)の1.8リットル瓶を送付いただけると幸いです。(中略)
    3. S氏の手続は予定通り進行していくことになっております。

     とりあえず返事は来た。しかし不安も湧いてきた。同一の日本酒を入手することで足りるのだろうか。オーストラリアでは、クアでは、クリスマスに続いて夏休みに入るのではないのか。予定通り進行して行って、無罪主張が出来るのだろうか。

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    事件で用いられた日本酒の一升瓶


    II.日本酒の送付

     オーストラリアの弁護士の指示に従い日本酒は入手したものの、海外宅配便でも郵便でもオーストラリアへの送付は不可能または困難とのことであった。
     しかし、幸いなことに、メルボルン事件の支援者でメルボルン在住のNさんが日本(大阪)に帰省しており、年明けにオーストラリアに帰国する予定であり、Nさんにお願いして持参してもらうことができた。そのうえNさんからはシドニー日本人クラブの代表格である保坂さんという方を紹介して頂いた。
     ところで、日本酒の送付が困難なことをリーガルエイドの弁護士に連絡したときの回答は「オーストラリアで探す他なさそうだが、1月は夏休みをもらうので2月に探す予定である」というものだった。そんなノンビリしたことで無罪主張ができるのか。私たちは、オーストラリアに乗り込み、まずは弁護士を納得させた上で無罪主張をしてもらうところまで持って行かなければという気持ちに段々傾いていった。


    III.日本国内での資料の収集・整理

     陪審裁判は連日開廷されるから、一旦裁判が始まると証拠を収集するだけの時間的余裕はない。そこで、裁判の進行次第で必要となる可能性がある証拠は、私たちは、一見役に立つかどうか分からない証拠でもとにかく準備しておくこととした。
     検察側の資料の中にあったS氏の供述調書の中で、S氏は自分が会社の代表取締役を務めていたことがあることを述べていた。その話を裏付けるため、かつてS氏が代表取締役を務めていた会社の商業登記簿及び関連する会社の商業登記簿をすべて取得することとした。
     また、東京にある“Y旅行社”というのも、会社名の末尾が“Co.Ltd.”となっていることから、名刺の記載が本当なら株式会社か有限会社の登記がしてあるだろうと考え、商業登記簿を取得することとした。
     さらに、S氏が代表取締役を務めていた会社の登記簿を調べていく過程で、多くの親族の名前が登場し非常に複雑であった。そこで、3代前まで遡った戸籍謄本を取得し、さらに、それを見やすく、説明する際により便利なように、家系図(Family Tree)にした。
    パスポートに押された多数の出入国記録のスタンプも、各種入り乱れて押されてあり順番がバラバラで分かりづらかったため、エクセルの一覧表を作成した。


    IV.バンコク在住の日本人との連絡

     S氏はオーストラリアに向けて出発する数週間前からバンコクで日本人のB氏が経営する会社に勤め始めていた。私たちは、このB氏に連絡を取って、バンコクでの情報収集をお願いすることにした。
     まずは、S氏の勤務先であるB氏の会社が実在することの証明のために、タイにおけるB氏の会社の商業登記簿を取得し送付してもらった。
     また、B氏の話では、「タイのビザ更新は30日ごとにしなければならず、長期滞在の日本人は皆同じようにしている」とのことであった。タイに長期滞在している日本人の多くは、ビザ書き替えのための一日バスツアーを利用して出国・再入国を行っていること、そのようなバスツアーの広告は、タイ在住の日本人対象の日本語新聞によく載っていることが分かった。そこで、そのようなバスツアーの広告が載っている新聞・雑誌を出来るだけ集めて送付してもらった。
     さらに、S氏が同じくバンコク在住の日本人X氏から手渡された調査内容の“指示書”は、何故か英語で書かれてあったが、一読して意味を取りかねる文法的に誤りの多い英語であった。しかも、単数形と複数形を一文の中で混在させていたり、スペルの誤りが“l”と“r”を間違える(例えば、“truly”と書くべきところを“trury”と書いている)など、日本人的な誤りも多くあった(タイ語の通訳の方に尋ねると、タイ語では“l”と“r”とはハッキリと違う音のため、間違うことはほとんど考えられないとのことであった)。私は、この“指示書”は日本人が書いたとしか思えないということをB氏にメールで伝えた。すると、B氏は、X氏に以前金を貸し、お金を返すという念書を書いてもらったことがあるが、その念書に書かれた英語はやはりよく意味の分からない文章だったそうである。FAXで送ってもらうと、その筆跡は、何と、今回の“指示書”の筆跡と同一であった。そうすると指示書はX氏が書いたことになる。事件の謎は深まるばかりだった。


    V.タイ語翻訳の確認

     S氏はタイのホテルで“Z”なるタイ人の女性と会い、東京にある“Y旅行社Z”の名刺を渡されている。その名刺は、英語ないしローマ字表記の部分もあったが、大部分がタイ語表記だった。このタイ語の記載に関しては、検察側提出の調書に英語訳も載っていたが、その英語訳が正しいかどうかを確認してもらう必要があると考えた。
     以前国選事件でお世話になったタイ語の法廷通訳の方にお願いすると、英語訳自体は問題のないことが分かったが、「Zという名前は、普通は男性の名前である」とのことであった。しかし、S氏によると、バンコク国際空港で名刺を渡した“Z”なる人物は女性だったはずである。では、“Z”は、男性なのか女性なのか、そもそも実在するのか、新たな疑問が渦巻くこととなった。


    VI.名古屋での聴き取り

     名古屋ではS氏の家族・友人からの聞き取りを行った。
     S氏は「友人のA氏から毎月3万円の送金を受けていた」ので生活に困ることはなかったという。A氏はS氏と約35年来の友人であった。S氏への送金についてA氏は、「Sが代表取締役を務めていた会社を私が継いでから、ニュージーランドに中古車の輸出を始めることとしたが、その時Sが車の購入代金を出してくれ、会社がSから借金をした形になった。中古車は50台仕入れて50台とも売れたが、ニュージーランドも景気が悪いので3割から4割くらいは未回収のままになってしまい、会社からSに金を返せなくなった。そこで、彼には、私から少しずつではあるが返済を続けている。」とのことだった。
     聴き取りの結果、S氏の家族・友人全員がS氏はどんなに金に困ったとしても麻薬の運び屋をやるような人物ではないという点で話が一致していた。S氏は、お人好しで人に何かを頼まれると気安く引き受けてやるタイプのようだった。誰もがS氏の無罪を全く疑っていなかった。私たちも、少しずつ「S氏は無罪に違いない」という確信に近づいていった。
     S氏が無罪になるには、最終的には、オーストラリアの裁判の際に陪審員を説得できなければならない。しかし、それ以前に、オーストラリアの弁護士にS氏は無罪だということを納得してもらわなければならなかった。シドニー訪問まで2週間、トライアルまで1カ月、果たしてそれが出来るだろうか。


    VII.東京・現地調査

     S氏が“Z”なるタイ人の女性から渡された名刺によると、Y旅行社は東京所在の株式会社であった。“Y旅行社”の商業登記簿謄本は既に取っていた。
     タイ語法廷通訳の方が東京在住のタイ語通訳の友人に連絡を取るなどして調べてくださった結果、名刺の住所からするとY社は東京入国管理局のすぐ近くにあると思われること、東京入国管理局(その当時)は千代田区大手町と北区西が丘(第二庁舎)の2か所に別れており、後者の最寄りの駅はJR埼京線の「十条駅」であること、在日タイ人の間では、後者を「入管十条(ニューカン・ジュージョー)」と呼んでいること(これは検察側提出の調書では「New Kangjoojoh」と意味不明の綴りになっていた)、入管十条の近くには小さな旅行代理店が多く存在しており、在日タイ人対象のタイ語新聞に、S氏に渡された名刺の内容と同様の広告を出していること等々を教えてもらうことができた。
     Y社及びZの調査のため東京に赴いたのは、2003年1月25日(土曜日)、トライアルまで3週間前のことだった。ごく普通の閑静な住宅街の中を探し回り、ようやく自転車屋の地下にY社があるのを見つけた。

    p1.jpgまず、100メートルくらい離れ、近所をぐるっと回りながら、角度を変えて何枚も写真を撮った。店はドアが閉まっており、呼び鈴を押しても返答がない。ドアの郵便受けの窓から中を覗くが、全く人の気配がしない。そこで、近辺の同じような小さな旅行代理店でタイ語の看板が出ているものを探し入ってみると、日本人2人が働いていた。「Y社のZさんに会いに来たが、今日は店が休みだった。Zさんという人は、今もY社で働いているか。」と尋ねると、「ああ、ZさんならずっとYで働いているよ。昨日も会ったよ。」という答え。私は、恐る恐る「Zさんて男性ですよね。」と尋ねてみる。すると、さも当たり前の事を聞かれて驚いたように、「そうだよ。何で?」と尋ねられた。Zが男性であることを確認できたので、早々に退散した。

  5. シドニー訪問(2月4日〜8日)

     第1回のシドニー訪問は、山下潔弁護士と私の2人で行った。


    I.Meeks Street調査(2月4日火曜日)

     本件で、S氏は、お土産の酒を“ジェフ”なる人物に渡すことになっていたが、警察の捜査結果では、この人物のものという携帯電話番号の契約者名が“Paul Kum Kum”、住所は「Meet Street 27」となっていた。しかも、Meet Streetは実在せず、Meeks Streetなら実在することも分かっていた。
     Meeks Streetは、下町の中の閑静な住宅街という感じで、人通りは少ないが、歩いてる人の中では東洋人が多いと感じる。とりあえず、周辺を含め写真を撮る。
     私は意を決して27番地の門を開けて中に入り、ドアの横の呼び鈴をならした。出てきたのは、80歳近いと思われる黒縁のめがねを掛けた白人男性。
     まず、日本から来た弁護士の正木という者であることを明らかにした上で、この家にアジア人が住んでいたことがあるかと尋ねると、全然無いという。ここにどれくらいの期間住んでいるのかと尋ねると、45年間という答え。アジア人が住んだこともないし、部屋を貸したこともないという。
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    II.日本人オーストラリア法律事務所訪問(2月4日火曜日)

     その後、保坂さんの仲介でシドニーの中心地にある林法律事務所(Hayashi & associates)の山田弁護士に会いに行った。
     山田弁護士によるとリーガルエイドの弁護士は、それ専門(リーガルエイドの事務所専従)でやっているだろうこと、本件のような薬物事犯で無罪を取れる可能性は極めて低いので、有罪答弁して刑が軽くなるようにするのが、一般的な弁護方針だろうという話をうかがった。リーガルエイドの事務所を訪問する時は、同行して頂けることになった。また、リーガルエイドの事務所やパークリー刑務所を訪問する私たちの予定からすると、連絡を取りやすいように一時的にレンタルの携帯電話を借りておいた方がいいとのアドバイスを受けた。


    III.私立探偵ジョン・プレイシーとの打ち合わせ(2月5日水曜日)

     ジョン・ブレイシーは、メルボルン事件の関係でお世話になっている私立探偵(Private Investigator)である。
     メルボルン事件と同様の事件がシドニーで起こっていることを説明すると、ジョン・ブレイシーは「私に手伝えることがあれば、手伝うが…」と言ってくれた。私たちが、「パークリー刑務所でS氏に接見したいが、日本の弁護士なので一般面会(Normal Visit:資料・メモ等の持ち込み不可)しか認められそうにない」と状況を説明すると、「それなら私がお手伝いできるよ。私立探偵として、受刑者にLegal Visit(資料・メモの持ち込み可)をする資格が認められているんだ(I'm licensed.)。私と一緒に行けば、Legal Visitとして接見できるよ。」と言う。これはありがたいと思った。


    IV.リーガルエイド事務所訪問(2月6日木曜日)

    p3.jpg朝、保坂氏とホテルで待ち合わせ、リーガルエイドの事務所まで行った。玄関で、ブレイシーと一緒になった。山田弁護士はビルの中で待って頂いていた。
     弁護士や職員の人たちの執務する大部屋は、通路からはガラス戸で仕切られており、ドアは普段閉まっている。中に入るには身分証明書をドアの内側にいる受付嬢にガラス越しに見せて、中から鍵を開けてもらう。このセキュリティ・チェックは極めて厳重になされていた。

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    弁護士たちの執務室入り口

     私たちは、通路を真っ直ぐ進んだ突き当たりにある応接室に通された。横のテーブルに発泡スチロールに入った日本酒の一升瓶が置いてある。
     2人の人物が部屋に入ってきた。オゼン弁護士とグッドリッジ弁護士だった。2人ともソリシター(solicitor)、いわゆる「事務弁護士」である。
     オゼン弁護士が「まず、私が、検察側の主張(the Crown's Case)を説明します。それから、私の弁護方針(the Defence Case)について説明します。最後に、皆さんから質問があれば何でもお尋ね下さい。この順でいいですか。」と説明する。私が「何時までの予定なのか」と質問すると、オゼン弁護士からは、「今日はこのために1日空けている。何時まででもいいですよ。」との返答だった。
     オゼン弁護士による検察側主張の説明のうち、特に有益だったのは、「故意」の説明である。オーストラリアでも薬物を所持していただけでは犯罪は成立せず、故意が必要である。問題は、どのような場合に故意があるかである。この点、「①薬物が入っていることを知っていたなら、故意あり。②薬物が入っていることを知らなかったなら、故意なし。しかし、③薬物が入っているかも知れないが、真相を知らない方がいいと思って何も尋ねなかったという場合は、故意あり。」とのことであった。

     故意の認定の点に関して、1点非常に気になる指摘があった。オゼン弁護士によると、「S氏が日本酒を“souvenir”(通常「おみやげ」と訳されている)として持って来たこと自体が非常に不自然である。S氏は、『日本酒を持っていたのは、souvenirとして日本酒をジェフという人物に渡すように言われたから』と言っているが、検察側は、③に当たると主張するだろう。」という。
     しかし、私たちにはこのオゼン弁護士の発言の意味自体がよく分からない。何度か質問と答えを繰り返した後、次のようなことが分かった。
     すなわち、オーストラリアには、他人を訪問する際にプレゼントを持って行くという習慣がそもそも無いのである。従って、人を訪問する際のプレゼントとして品物を預かるというのが、おかしい。もし、品物を預かるというのであれば、それが何であるかを確認するのが当然である。S氏は確認しなかったようだが、それは③に当たる、というのである。S氏が「訪問先にプレゼントするために日本酒を所持していた」というのは弁解として理解できずかえって怪しいとしか陪審員には思えないだろうと言う。
     オゼン弁護士の意外な説明に、日本とオーストラリアの文化の違いが理解の障害になっていることが明らかとなった。私たちはオゼン弁護士に「おみやげ」を持って行くことは、日本人の感覚からすれば何らおかしくないということ、日本には「手ぶらで行く訳にはいかない」という表現があるという例を出して、日本のおみやげに関する習慣を説明した。
     すると、オゼン弁護士(トルコ系ということだった)は、トルコにも同様の習慣がある、特に自分の親がトルコに帰るときは一杯プレゼントを持って行くと言って、理解を示してくれた。ただし、「陪審員に理解してもらうためにはどうしたら良いか。」という問題が残っていた。

     つづいてオゼン弁護士は弁護方針を説明した。方針は極めてシンプルで、「S氏は単純な思慮の浅い人間で、そこにつけ込まれて嵌められた(duped)」というものであった。すなわち、S氏は、「オーストラリアに行って仕事をしてくれ」と言われれば何も考えずに「ハイ」と言い、「これを渡してくれ」と言われれば何も考えずに「ハイ」と言って持って行く、薬物が入っているなんて疑う余地もなかった、というストーリーである。また、本件の薬物が入っていたのは日本酒の一升瓶というエスニックな(その意味で怪しげな)ボトルであり、陪審員には如何にも疑わしく見えることだろう。この点、オゼン弁護士は、「一升瓶が丁寧に包装されていたから、中味を見ることも出来ず、疑う余地がなかった」と主張し、故意の③の可能性を排除することを考えていた。だからこそ、同一の日本酒を同じ包装の状態でオーストラリアまで送ってくれと依頼したのだった。
     昼食後の打合せは、日本の弁護団が用意した情報の説明から始まった。
     まず、取り上げたのは、S氏が取締役を務めていた或る地方の優良企業の商業登記簿である。S氏の父親が代表取締役を務めていたことも記載されている。「これは会社の登録(Company Registration)に関する書面です。この会社の規模や歴史を見て、S氏の父親もS氏本人も会社の重要な地位を占めていたということが分かれば、S氏は麻薬の運び屋をやるような人ではないという証拠になるでしょう。そして、これらの書面によって商業登記簿に記載された代表取締役とS氏とが親子であるということが証明できます。」と、S氏の父親とS氏の記載がある戸籍謄本を示した。
     オゼン弁護士は、しかし、しばらく考えた後、次のように言った。「確かに、そういう意味では、これらの書面は本件に役に立つかも知れない。しかし、私の方針は、先ほど述べたように、S氏が騙されやすいから嵌められたということを示すことだ。この書面からすると、S氏は立派な会社の取締役だったことになる。立派な会社の取締役だったら、S氏は当然疑うべきだったと陪審員は考えるだろう。だから、この証拠を使うことは出来ない。」自分の立てた方針に忠実な、非常にキッパリとした態度だった。オゼン弁護士が、今この場で方針を変えると言うことは決してないだろう。時間はまだある。とりあえず、用意した証拠をすべて見せてから、もう一度方針全体を検討してもらっても遅くはない。

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    この廊下の奥が会議室

     次は、S氏自身が代表取締役を務めていた会社の商業登記簿である。私は、検察側の資料のあるページを開き、「警察の調書のこの部分で、S氏は『A氏から毎月3万円の仕送りを受けていた』と言っているでしょう。それは、S氏から会社を受け継いだA氏が、ニュージーランドと中古車販売の取引をするための資金が足らなかったから、S氏がこの会社にお金を貸したからです。現在の仕送りは、その返済のためです。この商業登記簿を見れば、その会社が実在すること、もともとS氏が代表取締役であったこと、その後A氏が代表取締役の地位を継いだことが分かります。」と説明した。これを聞いて、オゼン弁護士は「フ~ム」と思案を始めた。そして、「一応受けとっておく」と言って、さらに質問して来た。「では、S氏がこの会社にお金を貸したという証拠はあるんですか。」「いや、残念ながら契約書はありません。しかし、これが、その会社がニュージーランドと取引をしていたという証拠です。」と言って、私は、船荷証券(Bill of Lading)を示した。さらに、「そして、これがA氏がS氏に送金していた証拠です。」と言って、銀行を海外に送金する際に用いる『海外送金依頼書』(Remittance note)の束を示した。「これを見れば、S氏は金には困ってなかったこと、すなわち麻薬の運び屋をする動機がなかったということが分かります。」と付け加えた。船荷証券や海外送金依頼書を見たオゼン弁護士の顔が、パッと明るくなった。これらの書面は、日本で作成したものであっても、項目名は小さく英語でも記載されている。後はほとんど数字だけである。
     オゼン弁護士はしばらくこれらの書面を見ていた後、「これは確かに役に立つ。」と言った。そして、何枚もある書面を1枚ずつ取り上げ、細かい記載の意味を含めて説明を求め始めた。オゼン弁護士は、私が説明するたびに付箋に書き込んでは書面の該当箇所に貼り付けるという作業を始めた。一通りその説明が終わったところで、全員が「フ~ッ」と息をつく。やっと日本とオーストラリアの弁護士の呼吸が噛み合い始めたのだ。

     一息ついたところで、オゼン弁護士が「他に何かありますか。」と尋ねてきた。私は、タイ在住の日本人向けミニコミ誌を取り上げた。あらかじめ付箋を貼っておいた広告欄を示し、「S氏のパスポートには多数のスタンプが押してありました。それは、ビザの更新のために30日毎に近隣の国に出かけていたからです。しかし、そのようにしていたのは、S氏だけではありません。タイでは多くの日本人が同じような手段でビザの更新をしています。そのような日本人のために、日帰りバスツアーまであるんです。これらは、その日帰りバスツアーの広告です。」と説明した。再びオゼン弁護士の顔がパッと輝いた。そして、「どういうことが書いてあるか説明してくれ。」と言う。今度は、山田弁護士が主に説明をして下さる。オゼン弁護士は、説明を聞いてはミニコミ誌に付箋を貼り付けていくという作業をした。
     それが終わって、再びオゼン弁護士が「他にも何かあるか」と尋ねる。私は、「S氏は、空港で職業を尋ねられた時、無職だと答えました。しかし、実際には、その時点で既にS氏はB氏の会社で働き始めていたのです。ただ、まだ試用期間だったから、無職だと答えただけです。」と説明した。そして、「B氏の会社が実在すること、及びその会社の内容はこの書面を見てもらえば分かります。」と言って、バンコクのB氏から送付してもらった、タイ語で書かれたB氏の会社の商業登記簿とB氏の会社のパンフレットを示した。これらには日本のタイ語法廷通訳の坂本さんに英語訳をつけてもらっていた。オゼン弁護士は「なぜ、会社勤めを始めているのに、S氏は無職だと答えたのだろう」と尋ねた。たちまち日本人一同が発言を始める。特に山下弁護士は、「日本ではアルバイトをしているに過ぎない人や、会社勤めを始めたばかりで見習いの人は、たとえ働いていても、無職と扱うというような慣習が今もあるんですよ。日本では、もともとどこかの会社の正社員でないとチャンと働いていないという風潮があったんです。」と説明する。保坂さんも「最近でこそ日本でもフリーターなんて言って、アルバイトでもチャンと働いているかのような扱いをされるようになってきているけど、もともとは働いているなんて認められてなかったんですよ。Sさんも、もう五十ですからね。そういう昔気質の発想をしているんですよ。」と補足する。オゼン弁護士は、「それでは、先ほどの『おみやげ』のことも含めて、一度日本文化の専門家に確認を取らないといけませんね。」と言った。

     さらに、オゼン弁護士は、「他に私に伝えたいことがあったら、どんどん言って欲しい」と私たちに言う。「Zという人物が勤めているY旅行社というのは、タイの会社ではなく、東京の会社です。タイで飛行機チケットを発券した会社は、おそらく日本のY旅行社とは全く関係ないでしょう。Y旅行社が日本で実在しているというのは、これで分かります。」と言って、Y旅行社の商業登記簿と私が東京で撮影してきたY旅行社の写真を示した。オゼン弁護士はジッと耳を傾けている。「日本でY旅行社についていろいろ調べた結果、そこで働いているZというのは男性だということが分かりました。S氏がタイで日本酒を渡されたZというのは、女性です。すなわち、タイで人材派遣をしているY旅行社というのは、実はタイには実在せず、そこで働いているZというのも実在のZとは異なります。要するに、Y旅行社もZもその名刺も、S氏を安心させるための小道具として使われたのです。これが意味するところは、S氏は怪しむことができないほどに巧妙に騙されたということです!」
     しかし、ここで意外な言葉がオゼン弁護士の口から出た。「私たちは、最初からZが男性だと思っているが…」。(エッ?!私は内心あせった。)「いや、S氏はずっとZは女性であると言い続けているじゃないですか。」慌てて警察調書を探してよく見てみると、Zについて述べている部分の代名詞が、最初の1か所こそ“she(彼女)”となっているものの、その後はずっと“he(彼)”になっていた。調書は何回も読み返したつもりだったが、これまで気付かなかったのである。私は、「S氏の日本の家族・友人そして私たちに宛てた手紙の中では、S氏は常にZは女性だったと言っています。」と言った。しかし、オゼン弁護士は、「私は、刑務所にも接見に行ったが、その時も含めてZは男性だという感触をずっと持っている。」と言う。横のグッドリッジ弁護士も頷いている。私は、狐に騙されたような気持ちになって、「この点は、明日S氏に接見に行った時に確認する。」と答えるのがやっとだった。

     トライアルに向けての重要な作戦の1つは、S氏自身の被告人質問を申請するか否かだった。オゼン弁護士は、決めかねているようだった。客観的な証拠から無罪の心証を取れるようであれば、あえて被告人本人を証言台に立たせて、検察官の反対尋問に晒し、無用な疑問を陪審員に抱かせる必要はないからである。これに対して、ジョン・ブレイシーは、絶対にS氏を証言台に立たせるべきだという。陪審員達は、被告人自身の口から事件の説明を聞くことを望んでいる、そしてこれまで自分が関わった事件で無罪になった被告人達は、皆法廷で被告人質問に答えたものばかりだという。
     私は、両者の話を聞いて、自分の意見を決めかねていた。確かに、S氏本人を反対尋問に晒して、無用の疑惑を招くようなことは避けるべきである。しかし、自分の体験した真実のみ述べるならば、ボロが出ることなど大して心配しなくても良いのではないか。陪審員は被告人自身の口からいろいろ説明を聞きたがるだろう。弁護士が法廷で弁護のために様々な弁論をするのもいいが、本人が一切発言しないというのでは、どこか怪しさが残ったままになるのではないか。S氏も真実を訴えるため法廷で発言することを望むのではないか。そういえば、メルボルン事件で有罪となった5人の日本人達は、オーストラリアの弁護士たちの指導もあって、一切法廷で発言しなかった。これと同じ轍を踏んでいいものだろうか。このように考えていくうちに、徐々に私の気持ちは、S氏の被告人質問をすべきだという方向に傾いていった。
     法廷の傍聴に関しては、シドニー在住の日本人を組織して、毎日傍聴に行くようにもした。

     最後に、オゼン弁護士が、今後の見通しについて話をしてくれた。「Sさんの無罪となる可能性についてですが…」と切り出した。「…正直に言って、私は、あまり楽観的ではありません(I'm not very optimistic)。…しかし、皆さんにお持ち頂いた資料は大いに裁判で役に立つと思います。…そして、それよりも何より、彼は独りぼっちじゃありません(He's not alone.)。…あなた方も私たちもいます。…いい結果が出ることを望んでいます。」


    V.パークリー刑務所訪問(2月7日金曜日)

    p4.jpgS氏が勾留されているパークリー刑務所(Parklea Correctional Centre)は、シドニー市内から車で約1時間30分ほどかかる場所にある。
     刑務所の面会受付で、ブレイシーが自分はLegal Visitをする資格があること、日本人の弁護士とともに接見に来たこと、そして、グッドリッジ弁護士に前日書いてもらった書面を見せて録音の許可を求め、Legal Visitが認められた。
     面会室に至る扉は、オーストラリアではどこでも二重になっている。最初の扉の手前で金属探知器の検査を受けて、その扉を開けると何もない空間が数メートルに亘って続いている。その向こうにもう1つの扉があり、面会者全員がその空間に入ったのを確認して初めて、第2の扉が開く仕組みになっているのである。
     第2の扉を開けると、とても広い空間になっていた。普通の面会は、この広い部屋の所々に置かれた丸いテーブルを囲んで行われるようである。ただ、これでは話はすべて周りに筒抜けである。私たち弁護士は、透明のアクリル(?)で仕切られた畳3畳ほどの広さのブースに通された。
     やがて、係官に連れられてS氏がやって来た。S氏からの聴取で、今回の仕事を引き受けることになった経緯、B氏の会社で働くようになった経緯、A氏が送金を続けている理由等について、S氏の供述が一貫していることを確認できた。さらに、S氏が空港の税関で「無職」と答えた理由について尋ねると、「働いていると言っても、見習いじゃあねぇ。とても仕事を持っているとは言えないから、無職と答えたんですよ。」との事であった。また、おみやげを持って行った理由についても「だって、オーストラリアに着いたらお世話になる人なんだから、おみやげを持って行って当然じゃないですか。」と言う。さらに、「でも、オーストラリアに住んでいるタイ人の人たちに、どうしてタイから日本酒を持って行くんですか。タイのお酒ならともかく。不自然だと思いませんでしたか。」と尋ねると、「いやー、私は日本人ですからね。日本人が日本酒をおみやげに持って行く訳ですから、全然不自然には感じませんでした」。
     そして、S氏に日本酒を渡したZが女性であったかを確認すると、確かに女性だったという。私が、「オゼン弁護士にZは男性だったと言ったことや男性だという前提で話をしたことはないか。」と尋ねると、「そんなことはありません。Zは、女性ですよ。」と強く否定した。今度は、S氏が狐に包まれたような顔をする番だった。
     刑務所内の食堂で昼食をとった後、午前中に確認した内容をもう一度尋ね、それをカセット・テープに録音した。面会を終えたのは午後3時だった。
     
     帰路、グッドリッジ弁護士から電話がかかってきた。オゼン弁護士の発案で、2月17日から始まるトライアルで、私たちが行った調査や集めた資料の説明、おみやげやアルバイトに関する日本の文化的背景について証言してほしいというのである。再び1週間もの訪豪をすぐには承諾できず、私は前向きに検討する旨回答した。


    VI.現地日本クラブ・ケアネット訪問(2月8日土曜日)

     シドニーには、永住している日本人の集まりであるJCS(Japan Club of Sydney)という団体がある。その中の1つの組織に、シドニー在住の高齢の日本人の介護等、福祉活動を行うことを目的とした「ケア・ネット」というグループがある。メンバーの皆さんに、2月17日から始まる陪審裁判の傍聴に来て頂くようお願いすること、それが今回の訪豪の最後の目的である。
     Sさんやその家族の気持ち、陪審裁判において傍聴席に傍聴人がいることの重要性を説明すると、部屋に一杯の人たちは、静まりかえって聞いている。ところが、その後、質疑応答の時間に移ると、案に反して多くの質問が飛び出した。「麻薬を運ばされるなんて、その人は一体どういう素性の人なのか」「ワーキング・ホリデーでオーストラリアに来ているような20歳前後の若者ならともかく、50歳もの人が何故騙されたりするのか」というような質問から始まって、「その人が本当に犯罪者かも知れないのに、日本人というだけで味方しないといけないのか」「本当に無罪を主張できるような人だったら、外務省や日本領事館がとっくの昔に救いの手を差し伸べているんじゃないか」というような意見まで出た。質問にはできるだけ丁寧に答えた。会が終わった後、私たちの周りには女性の人だかりが出来てきた。みんなで冗談を言って笑いながら、最も活発に質問していた女性が、「皆さん裁判傍聴なんて行ったことがなくて。心配だからいろいろ厳しい質問をしましたけど、きっと皆さん傍聴に行くと思いますよ。」と言ってくれた。

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    ハイド・パーク

  6. 追加調査

     2月9日(日曜日)に日本に戻ると、2月17日から始まるトライアルに出席するため再度訪豪する準備をはじめた。どうしてもやっておかなくてはならないことの1つは、オゼン弁護士から受け取った取調べテープを通訳ミスがないか否かをチェックすることだった。特に、“Z”が何故、男性ということになっているのかが疑問だった。私は、取調べの調書(これ自体がテープ起こししたもの)を参照し、S氏が“Z”について話をしている部分に限定してテープを聴いてみた。その結果、何と、本当に通訳ミスが見つかった。S氏が、初めて“Z”について捜査官に説明している時、S氏は、「ええ、女性です。旅行社の。」と言っているのに、通訳は、“Yes, a person from the travel agency.”(「ええ、旅行社の人です。」)としか訳していなかったのである。通訳人は、“Z”が男性か女性かがその後問題になることなどないだろうと思って、単に「人」(a person)と訳し、代名詞も“she”になったり“he”になったりしていたのだろう。
     次に、やっておきたかったのは、“Z”が男性であるという証拠を獲得しておくことである。しかし、外国人登録しているかどうかも不明である上に、取り寄せようとしても時間的に間に合わない。思い切って“Z”宛てに電話を架け、その声を録音することで男性であることを証明することにした。

    正木: もしもし。
    相手: はい、“Y旅行社”です。
    正木: “ミスZ”はいらっしゃいますか。
    相手: はい、私です。
    正木: えっ、あなたは男性じゃないですか。
    相手: ええ、そうですよ。
    正木: 私は、“Z”という名前の女性と話しをしたいのですが。
    相手: “Z”という名前の女性は、ここにはいません。“Z”は私です。私は男です。
    正木: (よしっ!)

     この会話は自分でテープ起こしして、オゼン弁護士にFAXで送った。
     さらに、証拠として提出するため、日本の文化について英語で説明した書物を探した。

    1. “EXPAINING JAPAN IN ENGLISH”(『英語で日本を説明する』) これは、“souvenir”と“gift”の意味について詳しく説明してあった。
    2. “ETIQUETTE GUIDE TO JAPAN”(『日本のエチケットガイド』) これは、日本の「贈り物をするという習慣」について詳しかった。
    3. “TALKING ABOUT JAPAN UPDATED Q&A”(『日本を語る最新版Q&A』) これは、日本の終身雇用制について説明が詳しかった。
    4. “AN INTRODUCTION TO JAPANESE GRAMMAR AND COMMUNICATION STRATEGIES”(『日本語文法・コミュニケーション法入門』) これは、日本文化そのものの説明ではないが、否定疑問文に対する返答が英語と日本語では“yes”と“no”が逆になり混乱を招き易いことから、オゼン弁護士が日本人に質問するときには、なるべく否定疑問文を使わないように依頼するために役立った。

     以上の4冊の該当箇所もオゼン弁護士宛てにFAXで送った。

  7. 第2回シドニー訪問

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    地方裁判所全景

     2月16日、山下弁護士、湯原弁護士と私は、翌日に始まる裁判のため、それぞれシドニーへと向かった。


    2月17日(月曜日)

     最初の日、まず、裁判官への事件の配点がなされた。担当可能な裁判官のリストがあり、いわば「くじ引き」のような形でどの裁判官がどの事件を担当するかが決まるとのことだった。
    日本人クラブ・ケアネットのメンバーも、10人くらい来て頂いた。おかげで、傍聴席のうち、弁護側に近い右側半分は、ほぼ満席である。傍聴席の左半分は、大学生とおぼしき集団でほとんど埋め尽くされていた。
     法廷でオゼン弁護士は、さかんに大きい声を挙げてかなりの早口で「○○法第○○条によると、…」という話を続けている。検察側提出の証拠について、証拠能力で争っているようだった。何点かの証拠についてオゼン弁護士が、「○○の証拠は、□□を証明するために検察側は使おうとしているが、これこれの理由で証拠能力が認められない。」と主張したが、裁判官は、検察側の意見も聞かずに、「確かに、□□のためなら証拠能力は認められないかも知れないが、この証拠は、△△という目的のためなら証拠能力が認められるんじゃないか。」と言っているようである。オゼン弁護士の主張は、ことごとく裁判官に却下されているようだった。
     第1日目は、午前も午後も、結局このような法律上の争点について争われ、陪審員の選定すらなされなかった。その日の法廷が終わった後、裁判所内の小さな部屋でミーティングを行った。オゼン弁護士の説明によると、「この裁判官は、検察よりの訴訟指揮をすることで有名で、弁護士の間ではシドニーで最悪(worst)の裁判官との評判がある。」とのことだった。今朝、裁判官のリストを見た時、オゼン弁護士は、「この裁判官にだけは当たりたくない。」と思ったそうである。しかし、「幸い、S氏の有罪・無罪について判断するのは陪審員である。今後は、この裁判官には期待せず、陪審員を相手に頑張る。」とのことだった。
     陪審裁判では法廷は毎日連続で開廷されるから、1日の法廷が終わったからといって息を抜くことは出来ない。オゼン弁護士とグッドリッジ弁護士は、記録の束を抱えて足早に事務所に戻って行った。私たちもさっそくホテルに帰り、日本に戻っている間に発見した誤訳部分のテープ起こしを行った。


    2月18日(火曜日)

     2日目にしてやっと陪審員の選定がなされた。
     午前中の休憩の間に、昨夜テープ起こしをした誤訳の資料をオゼン弁護士に見せた。そして、「この通り、S氏が“Z”は女性だと言っている部分を通訳が訳していなかったんですよ。だから、この通訳の部分が間違っているということを早急に確認して欲しい。」と言うと、オゼン弁護士は、「ありがとう。でも、その部分はその通訳をやった人に確認し、通訳人自身がミスを認めています。今日か明日にでも、証言台に立って、訂正してもらうことになってるんです。」とのことだった。何だ、もうそこまで準備が出来ていたのか。少しがっかりしていると、オゼン弁護士はこれまで以上に真剣な表情で、「正木さん、通訳ミスは他にもあるかも知れない。少しでも気付いたことがあれば、何でも教えて欲しい。」と言った。


    2月19日(水曜日)

     この日は、シドニー空港の税関職員の証人尋問の続きや、空港警察の警察官などの検察側の証人尋問が続いた。


    2月20日(木曜日)

     この日も検察側の証人尋問が続いたが、当初の予定では、昨日か今日、弁護側の証人尋問に入っているはずである。この調子で行くと、いつ弁護側の証人尋問に入れるのか分からない。
     オゼン弁護士が、日本から来ている証人のために特別の便宜、すなわち検察側の証人尋問の途中に、日本から来ている証人の尋問を挟んで欲しいとの申し出をした。しかし、この申し出に対して、裁判官は激怒して却下。「民事事件ならともかく、刑事事件ではそんなことは認められない。そのようなことも分かってないのか。」という剣幕だったそうである。


    2月21日(金曜日)

     検察側の証人尋問は、午前中でほぼ終了した。午後からの弁護側の証人尋問は、私が1番手の予定である。昼休み後、いよいよ自分が法廷に立つ番だと思い裁判所に出向くと、オゼン弁護士から、私の証言は必要なくなったと聞かされた。私が証言する予定だった内容は、すべて今日の午前中までの検察側の証人尋問の中で出てきたとのこと。例えば、初めての訪問先に「おみやげ(Gift)」を持って行くことや、それを上司等に頼まれたら断れないこと。さらには、“Z”が男性であることまで、検察側は知っていたという。残念な気持ちもよぎるが、「弁護側に有利な証拠が検察側から出たのなら、弁護側から出るよりいいじゃないか。」と言うと、「その通りなんだ。」とオゼン弁護士。
     A氏の証人尋問が始まった。オゼン弁護士は、私たちが日本で集めた商業登記簿やニュージーランドとの取引記録・タイへの送金記録を基に、丁寧に質問を続ける。この時、これまで検察側の証人尋問しか聞いていなかった陪審員の中に、弁護側の反論、特に上記資料のコピーが手渡されて、非常にうれしそうな表情の人が数名いたのが印象的だった。
     それにしてもオゼン弁護士は少し丁寧すぎるのではないか。この後に控える検察側の反対尋問が途中で終わったらどうなるのかと心配になってきた。主尋問が終わったのは、午後3時40分ぐらいだった。後20分すると休廷となり、裁判は翌週の月曜日に持ち越しになる。オーストラリアでは、検察側は事前に全面的に証拠開示しなければならないのに対し、弁護側は事前に開示する必要はない。従って、A氏が証人となることを検察側は知らない。そこで、準備のしようがないから、検察側のA氏に対する反対尋問は反対尋問はあっさり終わるだろうとオゼン弁護士は予想していた。ところが、案に反して、検察官はいろいろ質問して来る。しかも、4時近くになると、ネタがないものだから、同じ質問を繰り返す。どうしてオゼン弁護士が異議を出さないのだろうと気になりだした矢先、裁判官が検察官に対し、「質問はまだ続きますか。」と尋ねた。検察官は、「はい、まだ2~3尋ねたいことがあります。」と答える。思わず「嘘だ!」と叫びたくなる。検察官の答えに応じて、裁判官がA氏に対し、「では、月曜日に続行するので、証人は月曜日の朝10時に出頭するように」と言い渡す。
     休廷後、リーガルエイドの事務所でミーティングを行った。オゼン弁護士は、「ちょっと待っていて下さい。上司と相談して来ます。」と言って席をはずした。やがて戻ってくると、「Aさんの帰りの飛行機代と月曜日までの宿泊代をリーガルエイドで負担するから、月曜日まで残ってもらえないか。」とA氏に尋ねた。A氏は、一瞬躊躇した後、意を決したように言った。「わかりました。何とか予定を調整して、月曜日まで残ります。」と返答した。よかった。これで、A氏の証言が無駄にならなくて済む。一同胸をなで下ろした。

  8. 帰国後の裁判の経緯

     私たちはA氏の証言の途中で帰国することとなったが、保坂さんは、その後毎日、メールで裁判の進行状況を知らせて下さった。検察側と弁護側の一進一退といってよい攻防が伝わってきた。
     3月3日(月曜日)朝9時ごろ事務所に出ると、保坂さんから評決の知らせが届いていた。以下は保坂さんの文章である。

  9. 評決の時

     3月3日、月曜日、シドニー市内ダウニング・センター地下1階のLG1法廷(Lower Ground room 1)。

     先週、金曜日の午後から評決に入った陪審員は、その日の内には評決に至らず、この月曜日に持ち越された。通常は9時30分から始まる評議が、陪審員の希望で、今日月曜日は8時半から始まっている筈だ。法廷は普通10時から開廷になるが、今日は念のために9時半に法廷前に来てみた。10時が近付くと、ケアネットのメンバーが三々五々集まってくる。やがて本件の主任弁護人であるオゼン弁護士も顔を出す。法廷前の廊下の椅子が、やがて待ちかまえる人で満席になる。
     10時20分、オゼン弁護士が足早に近づいて、「評決だ、中に入って下さい」と私に耳打ちする。廊下に待機していた皆に声を掛けて、傍聴席に着く。
     法廷では、いつもの通り、壇上正面に裁判官、フロアーには、正面に向かって左側に検察官とそのアシスタント、右側に弁護人とそのアシスタント、さらに右手の一段高い仕切りに囲まれた被告人席にはS氏が、通訳に付き添われて座っている。
     コツ、コツ、コツとドアをノックする音がして、陪審員が入廷してきた。S氏は、起立をして陪審員を迎える。12名の陪審員は、着席せず、席の前に起立したまま、判事と向かい合っている。書記席の法衣に法廷用のカツラの男性が、紙を一枚取り出して、両手で捧げると陪審員に向かって読み出した。

     「2002年7月1日、シドニー・キングスフォード・スミス国際空港において…」

     淡々と起訴状が読み上げられる。
     既に2週間に亘って、この法廷で何度も繰り返された、被告人に対する糾弾、反駁が再び脳裏に蘇る。(これを聞くのもこれが最後か)。

     「・・・陪審員に評決の結果をお尋ねします。
     評決は Guilty ですか、それとも Not Guilty ですか。」

     法廷の中を、凍り付いたような静寂が覆う。
     傍聴席に並ぶケアネットのメンバーと私立探偵のジョン・ブレイシー、合計12人の頭が、評決を聞き漏らすまいとジワッと前に乗り出す。
     2列に並んだ陪審員たちのうち、前列右端にいた中年の蝶ネクタイの男性が、立ち並ぶ他の陪審員を振り返る。
     そして、判事に向き直ると、静かな、しかしはっきりした口調で答えた。

     「Not Guilty !」

     「……よかった……」
     「…よかったわねえ。」
     傍聴席に悦びの声が満ちた。
     私は、拝みたい気持ちで、陪審員を見渡した。2週間毎日見た、顔なじみの面々である。
     年齢も、背景も全く異なる12人のシドニー市民が、冷静に、フェアな判断をしてくれた。私も同じシドニー市民の一人として、シドニーに住む事をこれほど嬉しく思った事はなかった。
     笑みをたたえたオゼン弁護士が、S氏に近づき手を差し伸べる。
     “Well Done !!”

     私は、いつものように右隣に陣取っていたジョン・ブレイシーと堅い握手を交わす。

     検察官が立ち上がると、判事に申し立てた。
     「被告人は、ビザの期限が切れているので、これからは移民省の一時収容所に移され、日本に強制送還されます。」
     「異議ありません。」
     オゼン弁護士が答える。

     その後、S氏は、拘置所の護送官ではなく、移民省の係官に伴われて、法廷を出てきた。これまで、S氏は、法廷の外に出るときはいつも裏側の、傍聴席からは見えない通路の方に護送官に連れられて出て行ってたので、法廷正面の廊下に出て来るのは、彼にとり初めてのことである。廊下に出てきたS氏は、オゼン弁護士・アシスタントのグッドリッジ弁護士と肩を抱き合って、握手を交わす。

     「上でお茶でも飲もう」
     皆に声を掛けておいて、私は電話ボックスに向かった。
     大阪の正木弁護士に電話を入れる。
     「未だ見えていません。」
     「それでは、シドニーの保坂ですが、正木さんに評決は無罪とお伝え下さい。」
     先に出た皆を追いかけて、裁判所1階にあるカフェテリアに向かう。
     カフェテリアを通り抜けた表のテラスに、S氏、オゼン弁護士、グッドリッジ弁護士、ジョン・ブレイシー、ケアネットのメンバーらがひとかたまりになって、未だ興奮からさめやらぬ様子。
     やがてS氏は、移民省の係官に促されて、皆から離れた。いつもは裁判所で挨拶をしても、立ち会い前の朝青竜のような恐い顔をしていたオゼン弁護士が、今は満面に笑みを湛えて皆に挨拶をした。
     「有り難う、皆さんが毎日傍聴席にいてくれた事が、大変評決にいい結果をもたらしたと思います」
     「サンキュー、サンキュー」
     グッドリッジ弁護士も加わって、握手の交換が続いた。

     私のかみさん曰く、「オゼンさんて、笑うと可愛い顔してるのね」

     その日、朝9時ごろ(シドニー時間の午前11時ころ)、私が事務所に着くと、机の上に電話メモが置いてあった。

     平成15年3月3日 午前8時43分
     シドニーの「ほさか」さんからTEL
     「Sさんは無罪になりました。皆さんに伝えて下さい。」
    (報告者 弁護士 正木幸博)

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    左から、オゼン弁護士、グッドリッジ弁護士、湯原裕子弁護士、山下潔弁護士、ジョン・ブレイシー(リーガル・エイドの事務所にて:筆者撮影)